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サイレン ト シグナル

by 郷木 鳥夢

 今朝方、近くに「ごおおん」と音を立てて落っこちたものがあり、すぐに「ほら見ろ」「急げ」と、近所の者たちが口々に叫び、バタバタと走っていく音がしました。

 サイレンはサイレンを呼び集めて、より大きなサイレンになっていき、人々のざわつく気配は一度ひと所へ集まってそれから、そういった勢いの全体が、過ぎた津波の後ろ姿のように、ここから遠ざかっていきました。

 私はちょうどそのとき、湯船に浸かっていたもので、騒ぎを見に行くこともせず、開けた浴室の出窓から、ちいさな空ばかり見上げておりました。

 空には大量の墨をひっくり返したように、夜がずるずるあふれ出始め、朝はそのまま昼を通らず夜となり、私の浸かっていた湯船のお湯は、冷たい水になってしまいました。

 暗い夜空と冷たい水の中で、私は体勢を変えました。すると自分の体の先端が、ぎらりと一瞬、光って見えたのです。

 私は、夜に囲われたこの水の中で、一匹の魚になっていました。

 身を返すと、白く光るウロコが見えて、それにこんなにも大量の夜に満ちた中でも、ちゃんと息を吸えていたのです。

 それで私は湯船を抜け出て、そのまま浴室の窓から外へと泳ぎ出し、墨汁を投げ込んだような、黒い夜の中を泳ぎ始めました。

 人は皆いなくなったのか、住宅街は静まり返って、そこへは冷えた夜が満遍なく、ちいさな路地の隅々にまで行き渡って、すべてを夜浸しにしていました。

 暗い夜の水路となった通りに出ると流れが強く、私は自分の心をぎゅっと握るようなかたちで、手足を体につけ、その夜の川をさかのぼっていきました。

 静かに流れる夜の川は、音をひとつも立てません。

 点滅をしていた街灯がひとつ、あまり聞き覚えのない音を立てて消えたほかに、音らしい音は聞こえませんでした。

 動くものもなく、静かな夜の色は、息をとめて見開かれた黒い瞳のように、しっとりとして深いものでした。

 こんなに静かで流れの冷たい夜は、私が泳いでいくのにとてもいい気がします。私のことを水の代わりに飲んでいた人たち。私のことを空気のかわりに吸っていた人たち。あの人たちは、今どこか見えないところへ行ってしまっているから。

「泳いでいくのに、とてもいい夜」

 私はそのひとりごとを声にして、それから銀色にぎらっと光る自分の体が、自分からも見えるように、何度も身をひるがえしながら泳いでいきました。

 交差点に突っ立った信号機が、つるはしを下ろすように、規則正しく点灯の作業をくり返していました。

「持ち上げられたつるはしは、誰も使わない青色だよ。それが黄色で位置を決めて、それから誰も従わない赤色に変わり、赤い色は地面に力なく振り下ろされた」

 信号の色は、流れる夜の川の底に投げ出され、底にたまっておりました。

 私は急に思い立ち、体を弓形に張って大きく跳ねると、すぐそばの金網を飛び越え、真っ黒な小学校のグラウンドへ入っていきました。

 明かりのないグラウンドはまるで湖のようでした。暗くて、対岸までたどりつけるのか、不安になるような広さがあって、途中には目印になるようなものが何もありません。私はちょっと心細かったけれど、また自分の体にぎゅっと手足をつけて、泳いでいきました。

 ようやくグラウンドを泳ぎ切ったところで、私のウロコと同じ輝きで光る水銀灯を見つけて止まりました。

 水銀灯に被さるようにして、一本の木が生い茂っています。風があって、細かな葉を揺さぶると、葉は、急流を下る沢のような音を立てるのです。その上、水銀灯に照らされた葉っぱは、細かく飛び散るしぶきのように、くるくると光って見せるのです。

 それを見て、私はここまで夜を泳いできた魚だったけれど、ここからは陸に上がり、続きは二本の足で駐車場の、固いアスファルトの上を歩いていくことに決めました。

 二本の足としっかり結んだ靴紐。踵が鳴らす、かたい足音。

 でも、音を交互に立てて歩き出した私を、駐車場に灯る水銀灯が青ざめた色で照らし、それは近くに張り巡らされた金網と共謀して、私の表面にウロコ模様の影を押し付けました。

 私は人目を気にして、歩く速度を一気に上げました。

 たぶん私は、ほんとうは魚になるはずで、魚に生まれ損ねた私が、ウロコを隠し人間をやっているだけなのです。その思いが頭の中に膨らんで、他の考えなどすべて追い出してしまいました。

 歩いている時は、高く跳ね上がることはできないけれど、私は誰もいない夜を自由に泳ぐ魚なのだから、そう遠くない日に、このままの姿で夜の深みまで跳ね上がることが、できるようにだってなるでしょう。

 そのとき私は、空中高くで弓形になり、ひとつのシグナルのようなきらめきで、白い反射光を、夜の中に放ってみせることでしょう。

 きっと遠くない日です。

 人たちが夢を見に、どこか遠くへと出かけているそのとき、私は高く跳ね上がって、夜空に滑らかな曲線、弓の形のシグナルを、夜空につけることでしょう。

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