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雨になった話

by 郷木 鳥夢

 封を開いて傾けると、中から招待状が一枚、滑り出てきました。

 それは薄い板状で、色はぴったりチョコレート色。装飾や文字は、精緻に刻まれていて、私はそのチョコレート色をした招待状を両手で持って眺めました。

 すると招待状は、ゆっくりと仰向けになるようにしなり始めたんです。甘い匂いも放ち出して、どんどんと私の手の中で柔らかくなっていき、私は招待状を、慌てて立てるように持ち変えたましたが、だめです、触れている部分から溶け続けて、内容を読み終えるよりも早く、早く、早く、どんどんと手の中で溶けていってしまいます。

 だから私は慌ててそれを食べました。招待状は、ほんとうに甘いチョコレートでできていました。それは確かに、溶けやすいチョコレート製の招待状だったのです。

 食べ終えて、招待状はなくなってしまったけれど、かわりにチョコレートの甘くて香ばしい香りが……まるで、ええ、まるでそれはスピーチのように、私の口から周囲へと漂い始めました。

 呼吸のたびに、私はどうもチョコレートのような言葉を話すようになったらしいのです。私が話を始めれば、それは招待状の内容として、口から香るチョコレートの言葉で読み上げられていくんです。

「香るままに」

 私の口は、香る言葉を話し続けます。

「浴びるように、見えるもののほうへ」

 私の口は、私の意思さえも離れて、そのスピーチをくり返しました。もちろん、チョコレート製の言葉で。

「では、扉を開けて」

 私は、私とも離れたところから発せられるその言葉に誘われ、どこか漂うような心地で扉を開け、外へと出ていきました。

 外では静かな雨が降っていて、それに人々の行き来は少なくて、私はちょっと自分を隠すように、私の持っている中で一番大きな傘を差し、ひんやりと気温の低い道へと出ていきました。

 私は早くから狭い路地の間を選んで行くことにしました。歩きながら口笛を吹くと、口笛がチョコレート製の調べで、細く長く流れていきました。

 水たまりをよけて歩くステップは、ハミングのように軽やかです。

 路地を行く時が、ちょうどお昼時だったものだから、建ち並ぶ民家の一軒ごとに、おいしそうな香りがしてきて、それが横断歩道のストライプ模様のようになって、道へ溜まっておりました。

 三歩か四歩、茹で立てのスパゲッティとバターの香りがあったかと思えば、次の十歩には、パンの焼ける香りを追いかけて、淹れ立てのコーヒーの匂いが添えられていくのがわかり、続く四歩には、揚物の香ばしさと、かけられるソースの甘酸っぱい芳香がうまい配合で混ざって漂い、それから先の一画では、焼けたチーズとカレーの匂いが道にこぼれ落ちていました。

 路地はまるで、華やかなパーティです。

 そんな縞模様の香りを次々とくぐりながら、私はお昼時のパーティを踊るようなステップで進んでいったんです。

 路地をぐるりと歩くうちに、突然私もお腹が空いてきたので、急いで部屋に戻ることにしました。路地と大通りを組み合わせた、一番の近道を加速しながら、時間をかけずに家へたどり着きました。

 部屋に帰って、扉を後ろ手に閉めると、あのパーティのような散歩とはきっちり、切り離されて、このちいさな部屋に、私はぽつんと立っているばかりでした。

 私の部屋には、何の香りもありません。

 私は、路地にこぼれていたあのたくさんの香りを思い出し、私も何かおいしく香るお料理を作ってみようと、小雨に湿った上着を脱ぎ始めたところで何かに気がつき、……そこで手を止めたんです。

 それは、雨の匂いでした。

 出かける時にチョコレートだった私が、散歩を終えて帰ってきた今は、すっかり雨の匂いになっていたのでした。

 上着の内側の、私は、もう、まるで小雨の降る容器のようでした。

 雨になった私が、流れてきて止まったこの部屋を黙って見渡すと、部屋は小さな池のように穏やかです。それから私は、お腹の空いていたのも忘れて、またあんな手紙でも届かないものかと思いながら、郵便受けのように黙って、椅子に座っていました。

 今日、私はチョコレートの言葉を話しました。

 チョコレート・スピーチ。それから路地を歩き、やがて帰ると、雨になっていました。

 今はここへ流れて来て、ちいさな池のように静かにしています。

 黙って座っている私の中では、……時々、小さな赤い金魚が跳ねるので、そのたびに静かな波紋が広がって、やがてゆっくりと消えていくのが、繰り返されました。

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