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対岸レストラン

by 郷木 鳥夢

 たとえば1ダースのビールが、次々栓の抜かれていくような、もう後戻りしない足の運びで進んで行きます。

 ポケットの中に両手を握って、河岸の石段を下って、それから川縁を歩いていくのです。

 少し前まで蝉たちは、ヘッドフォンで聞くような近さで鳴いていたんです。

 それもいつしか、音を間引かれるように減っていき、今では蝉の声のうちで、一番近い声までの距離が、イコール、夏の遠ざかった距離ということなのでしょう。

 夏は、ヘッドフォンから隣の家へ。隣の家から近所の林へ。林から遠くの神社へ。神社の裏山から山裾の果樹園へと、遠ざかっていきました。

 それから1ダースのビールが、次々栓を抜かれていくような、もう後戻りしない確実な足の運びで、日も暮れていきます。

 相変わらずポケットの中に両手を握って、川縁を歩いていくのです。

 空に、暗いブルーの残る暮色がやってくると、今日も川の向こう岸の、小さなレストランが明かりを灯しました。

 今日くらい、対岸に灯るレストランのあんな光のことは……私的な過去と和解できた後にようやく見つけた思い出などと、重ねてしまってもいいでしょうか。

 だって橋の見つからない、対岸のあんな灯のことは、そんなふうに思わなければ、やっていられないじゃないですか。

 あれはあんなにも親愛の向きでいるのに、けれど絶対に近くはならないものですから。

 やがて細い穴のように、星がひとつ生まれます。美しい一枚の空に穿つ、風穴のような光り方です。はためくように光を震わせている、星の三つ目を見つける頃には、もうすっかり夜になるのでした。どこからが夜だったのか、見当もつかない運びの夜でした。

 川に沿って、随分歩いているのだけれど、向こう岸に明かりの灯る、あのレストランへは辿り着けないままに川縁を、ずっと、ずっと、歩いています。

 いつだったか、ワイングラスの影がテーブルの上で、大きな円になっていたのを思い出し、一度あのレストランで食事をして、なんということもない、それについて静かに返された声を、拳をぎゅっと握りながら、突然思い出すのです。

 あの対岸レストランの灯が、焼けたステーキの匂いに見え、カナッペを囓る音に見え、ナイフが皿に触れたときの、硬質な手応えに見えてくるのですが、しかし、この川に橋は架かっていません。

 対岸の明かりを見ながら歩いていく川縁の夜道で、ポケットの中で握った手には、何も握られていなくて、いいえ、たとえそうであったとしても。

 出会い頭の、頭がない夜の奴にも、きっと尻尾はあるはずですから、なにかしらのヒントを掴んでやろうと、ポケットの中の手を引き抜いてみます。

 対岸のレストランが、まだ光を落とさないうちに、闇を、素手でつかむようにして伸ばしたら、どこからかやってくる光のせいで、浮かぶように白く分かれた指先が、無人の桟橋のように伸びて見えました。

 一艘の船もない桟橋を横目に、横へ横へと下って行くばかりです。

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