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『 月の彼女 』(動画小説付き)

by 郷木 鳥夢

 彼女は、僕から見えているのに、触れることができないので、今夜も寂しさが一層美しい。

 君には海があり、裏がある。

 満ちた瞳と、顔の陰りを見せる。

 月の彼女。───君は寄る辺ない空間にあって、そう名づけられた天体そのものだった。

  

 時々、音のしない声で話をした。

 ねえ、僕はもう、何者にもなれないらしいよ。ただ、こうして、僕は夜のアイス珈琲に浮かぶ透明氷の、わずかずつ溶けていく大きさをして、夜道を泳いでいく。

 でも、と僕は気を取り直し、

「まだ、会えるさ」と、そう言って、月の彼女と個人的な約束をした。

 今夜、誰でも同時に彼女と寝てもらえるし、誰もが同時に、彼女と眠りながら、けれど誰ひとり彼女と重なれはしない。

 月の彼女。

 その表情はいつも、光の速さで、一秒ちょっと前のものだった。

 ずっとずっと、すべての人が、ここより少し前の彼女で眠った。

 

 お風呂のちいさな窓のところに引っ掛けるようにして、鉢植えを置いた。

 それは、月の彼女からも見える。

 可愛い葉を伸ばす、その名を、僕はよく知らないから、彼女が名付ければいいと思う。

 月の出まで、ちいさな窓を開けたままで待つ。

 約束の一番最初になる。

 彼女は月面の、静止画像みたいな顔色で、ぎちっと親指を握り込んで そばにいた。

 僕は手首ごと握って、まっすぐ湯船に引き入れる。

 湯船から出ている冷たい肩に、手桶でお湯をかけてあげながら、永遠に消えない足あとをみつけて、遠い遠い、そう、かつて月だったものの話をしよう。

 開けていた窓から、手紙を綴るように出来事を伸ばし、その空間を折りたたんで、感情線をつける。

 もう、このまま何者にもならないよ。

 ましろなシーツに包まる君。

 君自身の発する光じゃなくても、しろく、あかるく、それ、そのものの、静かな君が───、

 あゝ、なのに、すこし前の顔をして、君はいた。

 なぜ、どうして、こうして今を、別の時にいるのだろう。

 冷えた夜をなみなみと注いだ僕の部屋と、光の速さで一秒離れた、君とのあいだで、鈴虫が鳴き出した。

 いつの間にか、足もとの方から、秋が来ていた。

『月の彼女』

【了】

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#散文詩的に幻想短編小説

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