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花氷

by 郷木 鳥夢

 あのひとが、帰ってくるので、ここにいます。

 わたしがここにいるあいだ、あのひとは帰るという言葉を思い出すことができるし、わたしは、自分以外の場所にある、理由のひとつになれるから。

 わたしは、結氷した湖の真ん中に出て、氷に開けた穴から出来事を釣って暮らしています。

 それは、忘れられてしまったポイントにいつまでもあるもので、それは「きっとダメだろう」と決めたとき、咲きかけで行き場をなくした花氷なんです。花氷は、芯に色が濃くあるものの、輪郭が淡くて、物としては取り出せません。

 とてもきれいだけれど、現代の上で融かすと、とてもひどい匂いがします。

 結氷からは、こうして出来事の途中を釣ることができるので、わたしはそれを釣って暮らしているんです。

 わたしが一日にすることは。

 生活音のほとんどしない、夜釣りがもっとも適しているので、日の暮れる前に準備します。周囲に帆布を張って、風避けを作って、それからコッフェルや燃料の確認もしておくこと。

 それから夜の中程を見計らってランプに火を灯すと、宇宙に明るく口を開けた、井戸に降りたような気分になるのですが、それはとくに好きなことです。

 そうやって準備ができたら湖の氷に穴を開け、針を沈めていくのですが、この仕事で大事なことは、音に注意することです。

 たとえば汗や涙を流すとき、垂らす音を立てないこと。粒を落とすと弾ける音で、時間が我に返ってしまうから、そういうものは溜めるよりも早めに流しながら、途中で乾かしてしまうほうがいいんです。

 それができれば、仕事はうまくいきます。

 いま釣りあげた花氷の芯の色味は、紅葉しかけたもみじの赤と緑の混じりでした。火と呼吸音。中心から広がる二色の先で、花氷の輪郭は煙のように解け、氷の層に透き通っています。

 夢は、急に衣服を剥がれると、火が回るように色を燃やし、そのまま燃え尽きるまで行ってしまう仕組みです。

 燃えて尽きるより前に時節から切り離されたとき、ちぎれた出来事は花氷となって、氷の層に残るのだそうです。

 今夜は四つ目を釣り上げました。

 なんだか恐ろしく夜が深いので、二人分の大きさの薬缶で、一人分の紅茶を温めます。甘く味付けをしたもので、たくさん用意してありますが、二人分を温めると、そのまま一人分になってしまうので、そこには慎重さが要求されます。

 真夜中の底で、バーナーコンロに火を入れて、ゆっくりと加熱していくあいだ、今夜収穫した、おそらく百年は隔たる出来事同士を隣合わせて並べてみました。

 色は、鮮やかさに何の差もありません。その時の、そのもので、たとえばこれだと、病室の隅に立ってカーテンを引き、国境よりも遠くからやって来る夕暮れを映しているような色の並びです。

 大事なことは、あのひとはときどき帰ってくるということで、だからわたしはここで、輪郭のない出来事たちの、短くも遠い面会時間のあいだ、本を読んで聞かせるボランティアも始めました。「そうして金魚たちは、誰も知らない帰るべきところを、未来に探して、ここで迷子でした」

 甘い紅茶が熱く沸いたので、コップに移し、一旦読む声を止めて、コップの縁へ息を吹きかけます。

 わたしがこうしていることで、帰るという言葉は、時々思い出されることがあるんです。

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