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夏柑

by 郷木 鳥夢

 いつからか、夏でした。

 蝉の声が、打ち水のようにびしゃびしゃ、白く乾いた歩道へ撒かれ、それは平たく地面に弾かれたあと、夏の空へ吸い込まれていきます。

「春はいつの日に終わったんだっけ」というひとりごとを、見上げるような姿勢のままで耳に聞くあいだ、夏の風は、濃い緑葉をフライパンの上で炒めつけるように吹いていて、一斉に裏返される葉が、黄緑色に明るくなったり、また戻されたりを繰り返していました。

 白く乾いた夏の道は、なだらかな丘の、果樹園の真ん中に続きます。ゆるやかに蛇行しながら、空へ近くなっていくその一本道を、誰も彼もすれ違うことなく、皆、歩いて行きます。

 道にますます勾配がついてきた辺りでした。先を歩いていた人が、なにも気付かぬ様子で「何か」を落としました。

 とっさに駆け出して、「それ」が地面に落ちるよりも早く手を伸ばし、その「何か」は手のひらに収まった、と思った瞬間、手の甲のほうに軽い衝撃が走り、周囲で「パキン」と乾いた音が響き渡りました。

 目を開けると、白い壁に囲まれた、そこはベッドの中でした。

 先を行ったあの人のことも、その人が気付かず落とした物へと手を伸ばしたことも、何ひとつ、この場にはありません。

 耳にはまだ乾いた音が残っていて、手の甲には軽い衝撃が残り、手のひらも軽く丸めたままですけれど、───けれど壁は天井まで白くて、あの人も気付かないでいたあの落とし物を、とっさに拾った一連の出来事はすべて、梯子を外されたように、つながりのない所のものでした。

 前を歩いていたあの人が、「何か」を落としたことに気付かないでいるように、今、こんな朝に放り出されていることを知る人も、誰も、どこにもいなかったのです。

 それは、雲ひとつない空のような、どこにも引っ掛けどころのないものでした。

 それでふーっとついた深いため息は、どういうわけか白くなり「なんだ、まだ冬じゃないか」という、ひとりごとに変わります。

 そんなひとりごとを、ベッドの中で仰向けのまま、こぼれ落ちてくるような形で耳に聞くあいだも、息は白くなっては見えなくなることを、繰り返しました。

 鼻の頭はぷくっとまるく冷たく、頬の辺りは平たく冷気に触れています。ストーブを点けようと、起き上がる時の拍子に、何かが掛け布団の上を転がり、「ごとっ」と音を立てて床へ落ちました。

 転がり落ちたものが何かは見えませんでしたが、気がつけば真冬の部屋の中に、仄かな夏柑の香りが漂っているのでした。

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