LOG IN

#54『午後、骨の鳴るような』

by 郷木 鳥夢

 目を開けたとき、少年は自分がどこにいるのかよくよくわからずに、ふと(夢だ)とつぶやいたのですけれど、その言葉がひどく大きな響きを持って飛び出たので、驚いて口をつぐみました。

 傾きを加速させている午後の陽が、少年の頬やまつげに当たっておりました。

 少年はひとりで電車に乗っていましたが、まだ、全部開けられないでいるその目に見た床では、列車の立てる「ゴタン、タン」という振動を伴った音が脈打って、鼓動のように車内を渡っていくかのようでした。

 それから床へ落ちる陽の光が、通り過ぎるビルや電柱の影を映して、点滅するように続いているのでした。

 まばたくように進む午後の車内で、少年は伸びをするように、膝の手前あたりへ出した手を組んだのですが、そのとき夢から醒めるような驚きの色が瞳に差して、組んだ指をすばやく離しました。

 床へ落ちる陽の光が、変わらず、通り過ぎるビルや電柱の影を映して、点滅するように続きました。

 しばらくの時を置いて、もういちど両手の甲を並べてみた少年は、指を少しだけ曲げました。彼の手は、すっかり節くれた老人の手だったのです。

 もういちど少年は「夢だ」とつぶやきました。でも喉の奥に痰が詰まって、言葉がうまく出ず、むせてしまいました。ようやくこぼれ出た声の端も、ひどくしゃがれて低い響きで、動きを止めた少年の、節くれた手の甲や、長いまつげには午後の日が当たっていて、それは弾けるように輝きを持って、まるで線香花火のように周囲へ散って見えていたのでした。

 ゴタン、タン。(コトン、トン)

 規則正しい間隔を保ち、電車の音が前方の車両からやってきて、後方の車両へと移動していきました。

 速度の、その一定は守られていて、どこか停車する駅にたどり着きそうな気配はありません。

 午後の光の、膝の上で、節くれた老人の手を持っていた少年は、座ったままその音を聞いていました。もうすいぶん長い時間、なんのアナウンスもなかったでは、ありませんか。区切りだとか、記念日だとか、何の予告もなく過ぎていったではありませんか。

 本当になかったのか、聞く耳の力のほうがないのか、と少年は試すように耳に指を入れました。

 まっすぐにならない指をぐるぐる回してから抜くと、そこにゴタン、タン。コトン、トン。(トン)。

 また、前方の車両から後方の車両へ、音が流れていきました。

 音は聞こえているのです。音の移動さえ、その目でみて取れるかのように、はっきりとしているのです。

 節くれた手の少年は、音に合わせて、その首を前方から後方へと、何度も何度も動かしながら試しました。

 ゴタン、タン。

  コトン、トン。(トン、コトン)

 音は、前方の車両から、後方の車両へと流れていきました。

 ゴタン、タン。

  コトン、トン。(トン、コトン)

 やはり音は一定で、確かに流れているのでした。

 前の車両から、あとの車両へ。速度が一定なら、一定という決まりで。もし速く駆けたなら、駆けただけ正確に速く。一定の距離をたもってつかず、触れずありながら、決して隔たることはなく、それをたとえるなら、告白のない両思いが、磁力のように引き合いながら、同時に失われてしまいそうな種類の、強い確かさでもって。

 ゴタン、タン、

  コトン、トン。

 少年は目を閉じてから、まぶたの裏だとか、頭の庇の内側のようなところへ言いました。

「眠るミイラの心臓が、鼓動していたとするなら、きっとこんな音で」

 ゴタン、タン、

  コトン、トン。

 音は古くて新しい少年のすぐそばを遠く(あるいは、一番近くを触れず)続いていました。

 ゴタン、タン。

  コトン、トン。

 トン、コトン。

  タン、コトン、トン。

「キュ。」!

 急な音によって、節くれた手を持つ少年が目を開けると、そこには厚手の制服を着た車掌が、手の甲で汗をぬぐいつつ、正面の空いた座席にどっかりと座ったところでした。

 咳払いをして、一応絡む前の痰を払った後、少年は、少年の中の老人の記憶を真似て、言葉を選びました。

「君、その服は、暑いんじゃあないかね」

 少年が真似て選んだ言葉は、かつて使ったことのない、しゃがれた声にぴったり合っていました。

「いえ、制服は規則ですから」

 と言ったのは車掌で、落ちかけた汗のたまを、袖で受け止めながら、そう答えました。

 ゴタン、タン。

  コトン、トン。(トン、コトン)

 音が、前方の車両から、後方の車両へと流れていきます。

「切符ですか」と、声と声の、音と音の、あいだを埋めるように、しゃがれ声の老いた少年は訊ねました。

「いいえ、そんな規則はありません」

 と、車掌は、取り出したハンカチで汗を拭きながら答えました。車掌は懐から黒い皮手帳を取り出して、中から後ろ半分ほどをぺらぺらめくってから、こう言った。

「切符に関する規則はありません」

 車掌は手帳の隅へ四角く指さして目をやり、それから手帳を閉じて、帽子の鍔に手をやると、それを下げて言いました。

「規則にあるのは、降りるかどうかだけです」

 そのとき、ぱっと車窓が明るくなって、そこはまばゆいばかりの光であふれました。

 窓の外を一面の、あふれんばかりの光が流れて行きます。一斉に発火した、銀色花火のように輝くすすきの穂が、空中を掃除する箒のように、強く風に揺れながら過ぎていくのです。すすきに撫でられた空気が、一層澄んでいくような色の青空を背景に、一層輝くすすきの穂が揺れながら流れていきます。

 網膜が、鼓膜のように音を感受する器官だったなら、いま見えているこの曲は、何番目の楽章だったでしょう。古い少年は、新しい老人の目で思いました。これらすべてが、大きな楽曲の中を流れている、音符のような出来事、そのひとつひとつだ、と。

 そのとき曲が転調して、視界が高くひらけました。景色の主役が、すすきの群生から広い河川敷へ変化して、夕景を目指す直前の西日まぶしい河川敷からは、対岸の団地がパズルのピースのように見えています。

 川に架かる鉄橋の高欄が、まばたきのように車窓を横切り、輝きはリズムを持って点滅をくり返していきます。

 川面は平らかで、どこか遠くまでつながっているようで、物事が、ほんとうはみんな共有されているような気持ちを、少年に起こさせたのです。

 やがて流れの光る川面は、老いた少年の黒目のふちへまで水位をつなげて、下のまぶたあたりまでは、流れ込む水を湛え始めました。何かがいっぱいになっていくのが、あちこちでわかったのです。

 あちこちのひとつずつが、慌てて目を閉じていくようでした。

 順番で、少年にも一呼吸を置く時間があり、それから少年が目を開けると、傾き始めた午後の陽は顔に横から当たっていました。

 彼は目を落とし、スニーカーの紐に手を伸ばしました。その時だけひどく幼く見える手が、短く突き出されるのを懐かしく見ていました。

 厚手の制服を着たあの車掌の姿はなくなって、窓から差し込む四角い陽の光が、通り過ぎるビルや電柱の影を映して点滅し、その光を無人の席にも落としていました。

 若すぎる手を、恥ずかしそうに腿の下に隠し、少年は車内を見渡しました。他の客も皆ひとりで腰掛け、思い思いの方向を見ながら、ぼんやりと背中を預けていました。

 ゴタン、タン。

  コトン、トン。

(音は前方の車両から、後方の車両へと流れる)

 西日の点滅する中、少年の手を隠した老人は、目を閉じて、受け持った固有の鼓動を探すように、骨を鳴らすような午後の電車の中、その体の内側へと耳を澄ませていったのです。

 

『午後、骨の鳴るような』 【了】

#散文詩的な短編幻想小説

OTHER SNAPS