LOG IN

#51『風になると目を閉じる』

by 郷木 鳥夢

 あゝ、あれをなんだか見た覚えがあるような、なんて気配に誘われて、あゝ、それはでも本当は、わたしのほうから望んでということなのかもしれないけれど、とにかく決まりごとで流れるように窓へ近寄っていって、外を見てしまった。

 ちょうど空中を、つがいの鳥がつつんっと跳ねるように羽ばたいて、この団地の谷間をあっさり抜けていった。

 この部屋の窓から見下ろすと、地上までは四階ぶんの高さがある。狭いベランダ菜園には、父の作るミニトマトが実っていて、いくつかは赤くなりかけていた。スチール製の手すりに、まだツルの先は巻きつきたそうにしている。

 ここから見える団地の壁はどれも灰色だ。それが日の光に焼かれて、発光しているようにみえる。斜向かいになる棟の角部屋に、日除けのゴーヤーを育てている世帯があって、そこだけ孤島のように葉が茂っている。異質というか、突出した強い深緑だ。

 下の広場には団地公園の遊具があって、遊具はピンクと青のペンキで塗り分けられている。砂場を囲む花壇では、毎年小学校で配布されるマリーゴールドの種が、今年もオレンジと黄色の花を窮屈に咲かせている。

 その花壇の隣から生えているのは、四階のベランダから手を下げるとあとすこしで触れそうな高さまにまで伸びてきた楓の樹で、枝ではまだまだ紅葉に遠い緑色の葉が風を受けて音を立てる。

 風。

 風に洗濯物が踊って、シャツが走るように腕を振る。

 きっとまだ誰も気づいていないことだけれど、お昼時よりも傾きをつけはじめた太陽の光で、空気中はほんのすこし、柑橘系の果汁を垂らしたような色に輝きつつある。

 ここでは、たくさんの団地が山の尾根のように連なっているから、太陽は階層や世帯ごとに、何度も沈むことになるのだけれど、立ち会うことができるのは、階層や部屋番号や無数の窓のそれぞれでたったの一回だけだ。

 また強く吹いた風に洗濯物が踊って、主人のいないシャツは走るように腕を振っている。それを見ていると、姿のよくわからない思いが胸を突いて、体の内側でいっぱいになる。

 そういう胸をつく無言の思いは、四階のこの窓を、もう、何度も音もなく飛び立ったのだ。でも、窓を出ていったその無言は、さっき鳥たちが風に乗って抜けて行ったような道を知らないから、どこへ行くということもできずに、いつのまにか胸の内へ戻っている。

 一階の木下さんちが、お出かけ先から帰ってきた。荷物の多いお母さんが、ぬいぐるみを抱いた子供を叱りながら先に共用階段へ入っていく。

 うちのお昼ごはんは、朝からずっとキッチンにあって「レンジでチンして」と、メモがついている。でもそのまま、もうおやつの時間も過ぎた。

 広場で蹴られたボールが、窓の高さに近くなって、落ちていく。地面に比べたら、ここは、空へ少しだけ近い。

 それから団地の谷間に、聞き覚えのある課題曲がさまよい出てきた。どこかの窓の形をくぐり、宙に出てきたピアニカの音色は、ここより少し下を流れている。駐輪場の陰で、高瀬さんちのお父さんがタバコを吸いながら、熱心に携帯をいじっている。ピアニカの音色が音を外し、何度も小節を戻る。ブランコのように、行ったり来たりして、メロディはなかなか先へ進んで行かない。

 歩いてゆける未来と、願ってやまない未来の、その道はきっと高度が違う。四階の高度。高架橋の高度。雲と風の高度。鳥の飛ぶ高さ。

 また一羽の鳥がやってきて、今度は宙にあるピアニカの音符をひとつずつ打つように、ちょん〳〵と羽ばたきながら、この団地の谷を一気に越えて、見えないところへ行ってしまった。

 キッチンのお昼ごはんのことを思い出す。メモのことも思い出す。日の傾きが、果汁をこっそり足すように、空気中へ色をつけ始めている。

 もう一度、外を眺め下ろす。

 鈴木のおばあちゃんが、手押し車につかまりながら、買い物に出かけるところだ。最近引っ越してきた家の奥さんが、鈴木のおばあちゃんと挨拶を交わしながら、買い物袋を提げるほうの手を交互に変えて、重たそうにしている。

 そこで窓がいっせいに音を立てた。

 強く吹いた風に、外にいる鈴木のおばあちゃんも、若い奥さんも、走ってきた子供らも、みんなが顔を背けた。

 その瞬間をつかまえて、無言で、ありったけの想いで、わたしは四階のこの窓を出た。風になれ。風になって、つま先が、自分の影も踏まないようなステップで、もう、風そのものになって。

 この窓を出て、着地よりも先に足で宙を踏み、歩道の標識を斜めにかわしながら上昇する。勢いをつけて、連なる団地の屋上を背面飛びにして、あの先まで高く、四角い谷を越えるところまで、行け。

 するといつの間にか目を閉じた、正体のない願いになって、またここに戻っている。

 風になると目を閉じる。風になるとき、目は閉じてしまって、時間は少しだけ進んでいる。

 願いの続きは、まだこの目で見られない。

 風になるとき、あの鳥のようには。

 

『風になると目を閉じる』

【了】

#散文詩的な短編幻想小説

OTHER SNAPS