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#52『夜に沈む町にピアノ』

by 郷木 鳥夢

 ここより先が、やってこなければいいのに。

 三階通路の踊り場、手すりの前に立って、サンダル履きのあの子が、ワンピースの裾を揺らし路地を小走りに行く、そんな後ろ姿を見おろしていました。

 ここより先が、やってこなければいいのに。ずっとこのまま。今のまま。ただ、ここより先の出来事が、ここへやってこなければいいのに、と。

 三階下の地上では、家々の四角い影が、西日で長くのばされて、なぜだろう、まるで不揃いの歯並び、町を呑み込もうとして、巨大な口がゆっくり閉じていくところにも見えるのです。

 あー、みなさん。こんばんは。いえ、まだぎりぎり、こんにちは。今からこの町は、とてつもなく大きな口の魚に、呑み込まれるようにして、昼間をなくすところです。暮らしているみなさん。この巨大な魚は、ここを隙間なく呑み込むと、町ごと深い夜の海へ潜ってしまうんです。

 二度と上がれぬほどに深く、確実に夜に沈んでいく。いま、ぼくも深海の、巨大魚の閉じた腹の中へといずれ沈んでいく、この町に住んでいます。

 あの子が一瞬振り返って、こっちに向かって手を振りました。ぼくはちいさく、迷いながら、こそっと手を振り返して、ああ、ここより先が、ここへやってこなければいいのに、と思うんです。

 ずっとこのまま。ずっと今のまま。ここより先の出来事が、どうかここへやってこなければ、いいのに。

 三階下の地上では、家々の四角い影が、西日によって長くのばされていきます。不揃いの歯並びが迫り、それはやがてぴったり合わさるでしょう。

 ハロー、ハロー、こちら、二度と浮上できぬほどに深く、暗い夜へと沈んで行く町です。

 今はまだ、階下の路地に、白いソックス履きのような猫の横断と、サンダルで小走りに行くあの子の、やわらなスカートの揺れがあり、きっとあの子は、頭の中を買い物リストでいっぱいにして、きっとソーセージに誘い出されたマスタードとケチャップの色を思い浮かべながら、だんだん小走りに路地を行くのでしょう。

 それを見おろしている、ここの高さは三階で、西日の当たる階段横の通路、ほんのちいさな踊り場です。

 いま眼下で、音もなくのびていくのは、立ち並ぶ建築物の不揃いな影。それはスローモーションで口を閉じていく、巨大魚の口、無数の歯並びなのでした。

 三階よりも、少しだけ早く、呑み込まれていく階下にあるのは、あの子が、サンダルの音を響かせ走っている住宅地の入り組んだ路地です。

 大き過ぎて、決してとまらない巨大魚の顎は、この瞬間もゆっくりと閉じていくことをやめません。あまりに大がかりな歯並びの、その隙間には、まだ、路地を走るあの子のうしろ姿が見えています。そして白いソックス履きのような猫が、道の横断をやめて、揃えた前あしをくるりと尻尾でくるんでみせます。

 呑み込まれていく町の、ほんの少しだけ高い場所から、塀の影にあの子がみえなくなるまでをぼくは見ています。ここより先が、やってこなければいいのに。そう、思いながらです。

 間もなく、おおきくて不揃いな歯並びが、ぴったりと、寸分の隙もなく噛み合わされて、そうしてすべては、遠い、取り返しのつかない、とてもとても深いところへと、潜っていくんです。

 そのとき、ここよりもひとつだけ高くて、まだ明るい四階のあたりから、誰かの練習するピアノの音が、ぽろぽろとこぼれ出しました。

 窓から通路、通路からこの三階へと、その音はいくつもの玉のように落ちてきました。踊り場の手すりに両手をかけたまま、仰ぎ見たぼくの目に、今もまだまぶしい方角、つまり巨大魚の高い上顎のほうから、滴り落ちるしずくのように、ピアノの音が降ってきています。

 もう、先に呑み込まれつつある階下まで、しずくのようにぽろぽろと、ピアノの音は、光の中を、こぼれて、跳ねて、落ちてくるんです。それを聞きながら、ぼくは三階の手すりの前にいて、サンダル履きのあの子が行った路地を、見おろしここからどこへも行けずにいるばかりです。

 町を呑む巨大な魚は、徐々に口を閉じていきます。あの子も、みんなも、一緒に沈んでいきます。ほんのわずかな時差を待って、ここも一緒に沈むでしょう。そうして巨大魚は全てを腹に収め、深海のような夜に悠然と潜っていくでしょう。

 いま、ぼくのいる三階通路の踊り場には、閉じていく巨大な上顎の不揃いな歯から、滴る、ピアノのしずくが、ぽろぽろ、降ってきて、下顎の歯並びに噛まれる影の中へとこぼれ落ちてていきます。

 この瞬間よりも先の事が、ここへやってこなければいいのに。どうか永遠に。永遠に。永遠に。ただここより先のことが、やってこなければいい。

 …のに。

 呑み込まれていく町の、ほんの少しだけ高い場所から、あの子が塀の影にみえなくなるのを、ぼくは立ったまま、見送っていました。

 そうして、ピアノのしずくを浴びながら、急に試すような気持ちで、まぶたを暗く閉じてしまうでしょう。

 今という出来事よりも先が、やってこなければいいのに。

 

『夜に沈む町にピアノ』 【了】

#散文詩的な短編幻想小説

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